※吸血描写があります。
初めて牙を人に突き立てた日を、彼は決して忘れることは無かった。
幾星霜の時が過ぎ、血に意識を埋もれさせた後も、彼の中にはひとかけらの棘としてずっと残していた。
その直情さに闇の父は呆れることはあったが、決して忘れろとは言わなかった。
それが答えなのだと、ずっと信じている。
暁光は剣となりて
暗闇がうるさい。
いつになく、ぎゃあぎゃあと泣きわめいている。
どうしてこんなに、鼓動が乱れるのだろう。
どうして、こんな欠落を感じるのだろう。
どうして。
手を伸ばしても届かない。
温もりは感じるのに、それほど近いのに、どうして届かない。
遠い。遠すぎる。
これはあまりにも酷いんじゃないか。
総毛立つような生々しい音と共に、血液が失われていくのがわかる。
吸血は快楽と言われるが、そんなものは一切感じなかった。痛みと虚無感しか得られない。
触れる体は熱くなっていく。それは自分の体が冷えていくせいだろうか。それとも本当に熱を得ているのだろうか、彼は。
煌めく星空を、彼女はしっかりと見据え、記憶に刻み込んだ。
この夜空を忘れることは無いだろう。
決して、忘れることは無い。
それぐらいに深く深く、目に焼き付けて、それから彼女は瞳を閉じた。
力を振り絞る。
地面に落ちた銀弾入りの拳銃を拾い上げた。
激震。
舌に触れた瞬間に全身を駆け巡った激情。電撃は脳を痺れさせ、思考を麻痺させる。
文字通り、貪る。
銀弾が与えた苦痛を取り除いた後も、貪り続ける。
だが、貪れば貪るほどに脳を輪で絞めるような痛みに襲われた。
がんがんと響くような痛み。
一滴吸えば吸うほどに痛みは酷くなってゆく。
何故だ。
赤い血は力を与えてくれるのではなかったのか。
どうしてこうも責め立てる。
何故許してくれない。
何故。
まるで、警鐘のようだ。
「っ!!」
気付いた瞬間に我に返った。
靄がかった思考が急速に晴れていく。
と、同時に、恐ろしい後悔がコロネロを襲った。
だがもう遅い。
牙を引き抜いた時点で、頭痛はすっかり消え去っていた。
明瞭な視界には、かつての同僚が、軽い貧血状態になりながらも、しっかりと拳銃をこちらに向けていた。
その表情を見た瞬間に、全てが終わったような気がした。
今までに向けられたことの無い顔だ。
憎悪。ただこれに尽きる。
彼女が、『吸血鬼』を見るときに、良く浮かべていた表情。そこには一切の親愛は無い。ただの敵に向けた感情。
何もかもを奪い去る感情の激流に、コロネロの動きが停止する。考えはまとまらず、動くことすら億劫だった。
ラルの指が動く。
殺すのは、動きが止まった今しかない。
発砲音と共に何の躊躇いも無く、意図も簡単に、銃弾は銃口から飛び出した。
銀の弾頭をはめた銃弾が、コロネロの心臓目掛けて突き進む。
動体視力の向上のせいか、やけに遅く感じられた。銀色の弾は、大気を回転しながら切り裂き、小さな渦を作って飛ぶ。
ゆっくりと進む、その間、ラルは一切表情筋を動かさなかった。
悼みすらしないのか。
やり切れなくなって、瞼を下ろした。
瞬間に、熱波。
体前面全てをなめつくす熱に、驚いて目を開ける。
視界に飛び込んできたのは、赤一色だった。
驚愕に言葉すら出せない。煌々と燃え上がる轟炎の壁が、コロネロの前に立ちふさがっている。いや、違う。
銃弾の前に、立ちふさがったのだ。
分厚い炎は銀弾を跡形もなくさせる。コロネロを守った、と言うよりは、強引に押し入ったようだった。
暴れる炎は、今は幾らか穏やかになっているが、それでも強烈な熱がコロネロを襲いかかって、思わず後退る。
炎を凝視するが、向こう側の人影は全く見えない。
五秒。少し長いその時間中、炎は勢いを衰えさせることなく、天に届こうという勢いで燃え続けた。そして五秒後、噴水の終末のように、赤はゆるやかに崩れ去った。
呆然としていたのはコロネロだけではない。
炎に隠されていたラルも、その手から拳銃をこぼしていた。
焦点の合わない視線が、偶然に合う。
何事だ、と明らかに問われていた。
実際、幾ばくも経たなかったのだろうが、永遠に近く感じられるほど、出来事は余韻を残していた。
やがて、足音が聞こえた。
ざりざり、というアスファルトを踏みしめる音だ。
それは、ラルの隣を通り、真っ直ぐコロネロへ向かってくる。
極度に張り詰めた空間を暴力的に切り裂いて、その吸血鬼は歩いていた。
言葉も出ない。
やがてそれは目の前に辿り着く。
冷ややかな眼光。
コロネロは、知らない姿に息を飲んだ。
『諦められない』
そう言われたが、制止の言葉は伝えなかった。
受話器越しに動揺は伝わっては来ない。
しかし、やり切れなさと怒りとを彼女が感じているだろうことは容易に予測できた。自分だって同じことを思っている。
止められるものではなかっただろう。
止めたとしても彼女は行っただろう。
最後に一目見るぐらいなら許してやってもいい。
それに。
「また、ろくでもないことを考えてるだろ」
フードを被った胡散臭い術師がリボーンをなじった。
自室でエスプレッソを楽しんでいたリボーンは、少し前に押し掛けて来たバイパーの言葉に鼻を鳴らす。一口、黒い液体を口に含んでから答えた。
「このまま逃がすのは癪だろ?」
「それはそうだけどね」
「負け知らずで最強の対吸血鬼部隊なんだぞ。それが後手後手に回ってばかりで、挙げ句の果てには白旗あげて裏切り者を見逃すだと? 冗談じゃねえ」
そんなものはリボーンのプライドと美学が許さない。
やるからには完璧に、だ。
コロネロが吸血鬼になったのか、されたのかはどうでもいい。コロネロは吸血鬼、この事実があればいい。アルコバレーノが転化されたという理由さえあれば、ハンドガンをぶっ放す理由が出来る。
悪例を俺の代で作ってたまるか。
「ラルがもしコロネロに会えたなら、大人しくしていられるわけがねえ。騒ぎなり起こしてくれりゃあ、殲滅出来る」
飄々とのたまったリボーンへ呆れを含んだ視線を投げかけてから、バイパーは呟く。
「コロネロが嫌いなの」
「いや? 俺が嫌いなのは吸血鬼だ」
「君は、」
一度言いよどみ、それからバイパーは思い切ったかのように一息で言った。
「君の世界はどんな区分になっているんだい」
意外だと言うでもかのような表情でリボーンは顔を上げた。
「失礼なやつだな。お前が思ってるほど狂ってはいねぇぞ」
「君の言い分はそう聞こえるんだよ」
「お前だって金をくれるやつは好きだが、奪うやつは嫌いだろ?」
それと同じだ、と言われてバイパーはふむ、と頷いた。
そう言われると分かるかもしれない。
リボーンは指を降った。
「人間の中にもいけすかねえやつはいる。吸血鬼だって面白いやつはいる。先代ボンゴレとか雲雀だとか跳ね馬だとかな」
懇意にしている名前をつらつらと挙げる。
要は、協力的であればいいらしい。
リボーンの言い分にも多少納得できる。
だが、と不意にリボーンが呟いた。
虚空を見るような眼差しだった。
今まで彼がそんな目をしているのは見たことがない。
「一度会ったきりだが、一匹だけ気になる吸血鬼がいる」
「君にしては珍しいね」
「ああ。俺も驚いた。やつのせいで、俺はアルコバレーノになったんだ」
バイパーは目を見張った。
この話を聞くのは初めてだった。
アルコバレーノ。最強の対吸血鬼部隊と言えば聞こえはいいが、内実は血と呪いに満ちている。だからこそ強烈な力を有することが出来るのだ。
悲劇的だとは思わない。なぜなら全員、理解した上で力を求めたからだ。人生だとか、仲間だとか、全て捨ててでも力を求めた。だからアルコバレーノの誰一人として後悔も嘆きもしていない。
『インダコ』は欲を求めた。『ロッソ』は平和な生活を。『アッズーロ』は怠惰な生活を変える何かを。『ヴィオレット』は更なる難解、『ヴェルデ』は自身が望む追究。『アランチョ』は周囲の調和だった。
だがこの男は惰性で『アルコバレーノ』にいるように見えていた。
理由が、あったのか。
バイパーは静かに続きをうながす。
リボーンは小さくうなずいた。
「俺は町外れの教会で育てられたんだ。教会が孤児院を経営してた。親が早くに死んだらしい。他にも似たような理由のガキ9人と一緒に暮らしてた。ファーザーがサッカー好きでみんなで遊んだりとか、楽しかったな。シスターはもともと大学の教授で博識だったから、色んなことを教えてくれたし、俺は優秀だったから、同年代のやつらに負けないぐらい頭は良かった」
奨学金で私立中学に行くことも決まってたんだぞ。
そう言うリボーンに驚きを隠せない。
もっと、黒い過去を送っていそうなイメージを持っていた。
昔のことを語るリボーンは楽しそうだった。
「俺が奨学金をもらえると分かった時のみんなの喜びようはすごかった。ファーザーが特別だ、って町までご馳走を買いに行って、シスターと子供達は祝いの飾り付けをしてくれた。出来るまでは外に行ってろって教会を追い出されたけど、門番が話し相手になってくれた
祝ってもらえる。みんなが喜んでくれるってのが嬉しかった」
不意にリボーンは顔をしかめた。
バイパーの顔が、とは言っても口元しか見えなかったが、形容しがたい表情を浮かべていたからだ。
「あ?」
「いや、続きをどうぞ。ギャップにちょっぴりびっくりしただけ」
「……で、宴の準備も完璧。お祈りも済ませて後は食うだけ! の次の瞬間には教会は血まみれだ。アンダーイヤーの吸血鬼に襲われて、ここまでか、って時に超強い吸血鬼がやって来て助けてくれたってわけだ」
「その強い吸血鬼とやらが?」
ああ、と彼は頷いた。
きらきら光る綺麗な目。それと若い澄んだ声。
顔は見えなかったが、惹かれた。
その吸血鬼は町まで俺達を連れて行き、町長に保護されたのを見届けた後、その場を去って行った。
「あいつにもう一度だけでいいから、会ってみてえ。それが、俺が『アルコバレーノ』にいる理由だ」
言い切って、リボーンはすっかり冷えてしまったエスプレッソを飲み干した。
姿形は分からない。
だけどきっと、会えば分かる。
証拠もない確信に、リボーンは笑みを浮かべた。
もうすぐだ。
きっと、もうすぐ。
鼻で笑った男は、コロネロを睥睨した。
悪辣な表情だが、整ってはいる。表情を無くせば、おそらく誰からも好かれるような好青年だろう。だが、あまりにも性格が表に出過ぎていた。
いかにも面倒だ、というような雰囲気の彼は、ラルを振り返る。
一瞥し、また鼻を鳴らした。
ラルが慌てて拳銃を拾い上げ、胸元からサングラスを取り出す。吸血鬼と目を合わすのは自殺行為に他ならない。
ましてや、先ほどの炎の壁といい、明らかにこの男は古血だった。
男は青い目を細め、銀髪をがしがしと掻いた後に、ふかしていた煙草を携帯灰皿に押し付けた。
紫煙が断末魔をあげる。
そしてまた、新しい煙草を取り出した。
静かすぎる中、ラルが声をあげた。
「……お前が、コロネロを」
「ちげえよ」
間髪入れずに言い切り、男はライターで火を点けると、煙草を深く吸い込む。
一度吐き出してから、彼は不意に動きを止めた。
と同時に、聞いたことも無い声が、コロネロの頭の中に響いた。
――ツナはっけーん。そっちは?
目の前の男じゃない。誰か別の声だ。
おそらく吸血鬼同士の交信だろう。
次の瞬間には、コロネロは何かに引っ張られるように後ろに倒れ込んでいた。腰に、幼い腕が回されている。
この腕と、この体温は。
馴染みのそれに思わず笑みが浮かんだ。
「コロネロ!」
ラルが叫んでいるのを最後に、コロネロは闇へと引きずり込まれていった。
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