『ある夏の夜』
夏ですからね。
そう言って、本田は紺の着流しの袂で口を隠した。
暑苦しい夏の夜、涼やかに鳴く鈴虫、生温い風が体をなめてゆく。決して気持ちの良いとは言えない中、本田の家の縁側で彼らはぼんやりと庭を眺めていた。
部屋の中にいれば暑いが、外にいればそうでもない。かと言って、涼んでいる、と言えるほど涼しい夜でもなかった。
そんな時に、いきなり本田が言ったのだ。
隣で寝転がっていたアーサーは、本田の顔を下から見上げた。
象牙の肌が闇夜に浮かぶ。
家の明かりを消し、星明かりと庭の灯籠しか無いせいか、それは酷く扇情的だった。まっさらの肌に、ごくりと唾を飲む。
「暑いでしょう、皆さん」
彼はそう言うと、周りを見回した。
アーサーとは逆の隣にフェリシアーノが呑気な顔で本田にへばりついていた。その向こうにルートヴィッヒが憮然として縁側に腰掛け、庭の砂利に足を下ろしている。
本田以外の全員が浴衣を着ていた。今日までに、こっそり作っていたのだ、と彼がくれた浴衣は、それぞれの国旗をモチーフにしたものだ。
濃緑の地に白と赤をおかしくならないように配置したフェリシアーノとルートヴィッヒの浴衣は、同じモチーフである。黒地に赤と黄色をさりげなく忍ばせた浴衣の後、本田はくるりと首を曲げた。彼は、最後にアーサーを見下ろした。
暑苦しい夏の夜。
紺色の浴衣の生地は、本田と同じらしい。そう、聞いた。
ぼんやりと昼の会話を思い返しながら、彼の目と目が合った瞬間に、和やかな記憶は一気に凍りついた。
「あ……」
本田の、黒曜石にひたと見据えられるだけで、背筋になぜかひやりとしたものが走る。
氷漬けにされたのはたった一秒だろう。だが、時間さえ凍らされてしまったかのように、あまりにもその一秒は長く感じられた。
「何だよ、菊! 俺は仲間外れか!?」
部屋の奥から拗ねたような声でギルベルトが怒鳴りつける。
黒い瞳はふいと逸らされ、アーサーはほっと息を吐く。無意識に呼吸を止めていたのをその時、彼は気付いた。
本田は、一人、庭を眺めずテレビを眺めていたギルベルトを振り返ってにこやかに笑っていた。
もう先ほどの温もりの欠片など感じない目は、こちらを見てはいない。
真っ暗な中でテレビを見ているギルベルト。白地に背中の黒鷲。赤と銀で細工をした黒い帯に、えらく喜んでいたのは、昼のギルベルトだ。呆れたように本田は溜息をついてみせた。
「ギルがそちらにいるからでしょう。まったく、あなたはいつまで経っても、侘び寂びを理解しようとしない」
「ケセセ、つまんねーんだよ!」
「……フランシスさんが台所で夜食を作って下さっています。ギル、呼んで来て頂けますか?」
そう言って本田は立ち上がった。
しゃんと伸ばした背筋。何でもない所にアーサーの目がゆく。
しっとりと歩いて家のどこかへ行く彼に、フェリシアーノが不思議そうに声をかけた。
「どうしたのー、菊?」
間延びした声に振り返った彼は、ふふ、と微笑んで見せた。
青い光が本田を少しだけ黒の中に浮かび上がらせる。
「いえ。ギルがつまらない、とおっしゃるものですから」
「兄が失礼なことを言ってしまった、すまない」
「ああ、それは気にしておりません。ちょっと、思いついたことがあるだけですよ」
ルートヴィッヒの心配そうな顔に微笑んで首を振り、そして本田は踵を返す。その後を、テレビを点けっぱなしにしたギルベルトが追いかけた。
二人の背を首を傾げて見送るルートヴィッヒとフェリシアーノと違い、アーサーはどうしてだか動けなかった。
顔が見えなくなる瞬間、アーサーは、本田のその微笑ががらりと消え去り、無表情になるのを見てしまったのだ。
ぞく、と何やら粟立つものがある。
いつもの本田の無表情。何も読めない表情。いつも通りと言えばいつも通りだが、どこか、この生温い空気のせいだろうか。怖いものがある。
――いつだったか、本田に、夜の話をしてもらったことがある。
日本には、『丑三つ時』という魔性が一番強くなるときがあるという。
ちらり、と腕時計に目をやった。
午前、二時。
十二時ぐらいまではこのメンバーで騒いでいた。酒を飲み、フランシスと本田とフェリシアーノの手料理に舌鼓を打ち、ギルベルトやルートヴィッヒと昔話に花を咲かせた。その後、それぞれにやりたいことをしていたが、不意に本田が家中の明かりを消して周り、庭に面した窓を開け放ったのだった。
そこからは誰も会話をしていない。
ぼんやりと、庭を眺めていただけだ。
じっとりとした空気。
新月である今夜は、月が見えない。
点々と、星が淡く光るのみだ。
何時の間に、魔性の時刻になったのだろう。
「……本田は何しに行ったんだ?」
ぽつりと呟けば、フェリシアーノが首をひねる。
「わかんない。でも、何かしてくれるんだろうね」
「ああ、兄さんが失礼なことを言わなければ……」
「菊って、八橋にくるんじゃうもんね。ほんと、八橋って美味しいんだよー」
「フェリシアーノ、話がずれている」
「ヴェー」
最初から期待はしていなかったが、やはり望んだ解答は返って来なかった。
眉をひそめたアーサーに、フェリシアーノが呑気に告げる。
「菊が帰って来たらわかるよ」
それもそうだが、心のどこかで、ぴりぴりと何かが訴えている。
これは危険か?
わからない。
でも、『丑三つ時』だ、今は。
嫌な言葉を思い返して、余計にアーサーの心は沈んだ。
折角、本田の家で楽しくやっていたというのに、なぜこんなことを思わねばならないのだろう。彼だってこちらをもてなそうとしてくれているのに、失礼になる。
そう言い聞かせて、アーサーは木の床から体を起こした。
地面と同化していた視線が、少し高くなる。
「なになに~? 菊ちゃんが何かしてくれるって?」
「何すんのかは分かんねーけどな!」
丁度そこへ、フランシスを連れてギルベルトが帰って来た。
二人の手にはおにぎりを乗せた盆。
「夜食も持ってきてあげたよ」
にやにやと楽しそうに笑うフランシスは、アーサーを見た瞬間に目を丸くした。
「え、どしたの?」
「何だよ」
「お前、すんげー怖い顔してんぞ?」
そうだろうか。
自分の頬にそっと手を当ててみる。
暑い夜、のはずが、なぜだかやけに冷えていた。
フランシスは夜食を心待ちにしていたらしいフェリシアーノに呼ばれ、そちらに行ってしまった。残ったギルベルトだけが、じっとこちらを見ている。
「……お前」
「あ?」
「本当に、大丈夫なんだな?」
赤い瞳が、らんらんと輝いていた。
こいつに心配されるほど、酷い顔をしているのだろうか。
気になったが、一応頷いておく。
数秒、ギルベルトは不審そうにこちらを見ていたが、それからフランシス達の会話に加わった。
アーサーは一人、ぼうと隣の騒がしさをよそに、空を眺める。
ああ、暑い。何て暑い夜なんだ。
ほう、と息をついた時だ。
「どうか、なさいましたか?」
唐突に、声が降って来た。
驚いて振り返ってみれば、紺色が目に入る。そのまま視線を上へと上げれば、黒い目が、じい、とこちらを見つめている。
真後ろに本田が立っている。いつの間にいたのだろう。あまりにも近過ぎる位置にいる彼に返す言葉を失い、口をぱくぱくとさせていれば、横からフェリシアーノが本田に突進した。
「菊ー!」
「おや、フェリシアーノ君。びっくりしました」
「ごめんね! それで、何をするの、菊?」
問われれば、本田は愉快そうに微笑んだ。
袖で指された方向を見れば、部屋の真ん中に行灯が六つ置いてある。そしてそれを囲うように、座布団が人数分、円陣を描いて敷いてあった。
首を傾げるフェリシアーノをよそに、フランシスがぽん、と手を叩いた。
「分かったぞ! 『百物語』だな!」
百物語、と鸚鵡返しにルートヴィッヒが返したところに、ギルベルトが笑った。
「昔やったな。あれだろ、怖い話だ! なるほど、面白そうじゃねーか!」
「その通りです」
「ええ、菊! 怖い話なの!?」
「フェリシアーノ、怖がるな。情けない!」
「心配しなくてもいーよぉ? お兄さんがたーっぷり慰めてあげるからね!」
「ヴェエエエエエエエエエ! ルートォオ!!」
「抱きつくな!」
「フランシスさん、ほら、落ち着いて下さいな」
「ちょ、菊ちゃん! 笑顔が怖い!」
「ああもう! うぜえ! 全員さっさと座れっつーの!」
なかなか話の進まない面々に向かって、ギルベルトが吼えた。
本田を猫つかみにして、ずりずりと引き摺って座布団の一つに放り出す。放り出された本田の方はと言えば、首をさすりながら黙って正座した。その左に、当然のような顔をして、ギルベルトがどしりと腰を落ち着けた。
「おら! さっさと全員座りな!」
「乱暴ですよ、ギル」
「ケセセ!」
まったく、と言いながらも微笑んで、本田は皆に座るよう勧めた。
何となく、本田の真向かいの位置にアーサーは座った。
ギルベルトとは反対の、本田の右隣にフェリシアーノがびくびくと座る。当然、保護者と化したルートヴィッヒがフェリシアーノの隣に座った。五人が座ったのを見て、残りの席、ギルベルトとアーサーに挟まれたところにフランシスが腰を落ち着けた。
全員が座ったのを見届けた後、本田は小さく頷いた。
「さて、皆様。百物語をご存知ない方も当然いらっしゃるでしょうから、まずは短く説明させて頂きますね」
まだ、火はともしていない。
円陣をゆっくりと見回し、唇を開いた。
「百物語とは、日本に伝わる怪談会の一つです。新月の夜、複数の人数で百の不思議な話を語り合うのです。部屋の明かりは全て消し、百の行灯のみを別室に置く。一つ話すごとに、その部屋に行き、行灯を消してゆく。百話語り終えた後には闇が待ち、その闇の中から、怪異が姿を現す……、ざっと言えばこんなものでしょうか」
全員の顔をくるりと見回して、本田は笑った。
「本来ならば、三間必要であったり、行灯を消す為に手探りで闇の中、別室へ行かなければならなかったり、または服装に定めがあったり、刀を魔除けにするなど、まあ、色々と定めもあるのですが、面倒な上に、怪我をしてしまっては大変ですので、今回は勝手に略式にさせて頂きますね。行灯は別室ではなく、円陣の中心に。百話も語るととてつもない時間がかかりますので、人数分の六話。雰囲気を楽しむくらいで良いでしょう」
どんなものか、よろしいですか。
締めくくった本田は、五人の反応を伺った。
フランシスとギルベルトはどうやらどんなものか知っているらしい。しかしその他の面々はまだ首を捻っている。
ギルは昔、彼の家に行った時に、教えたことがあるし、日本の文化を良く知るフランシスは知識として知っているようだ。そうでなくても、最近始まったアニメで怪談ものがあったし……。
と、ぼんやりしながら本田は瞬いた。
実践が一番良いだろう。
「ひとまず、私が最初にやってみましょう。しかし、その前に」
言いながら、彼はフェリシアーノがちゃっかり抱き込んだフランシスお手製おにぎりをちらりと見た。フェリシアーノがびくりと肩を震わせる。
「まずは、腹ごしらえとしましょうか」
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