その手を取ったのはもう、ずっとずっと昔だ。
初めは、確か打算だった。
その時、俺が欲していたものは、肉と水。そしてぐっすりと眠れる場所だった。男はそれらをくれると言ったから、だから俺はその手を取ったのだ。
飢えるのは怖い。獣は怖い。いつか殺されるのを恐れて逃げ出した奴隷は、生きて行くにはあまりに無力な子供で、独りぼっちだった。
男の手を取れば、飢えを凌げたし、獣に怯える生活もしなくて済んだ。
だから、俺は、その手を取ったのだ。
そして受けた闇のキスは、とても甘く、芳しく、妖しい味をしていた。
暁光は剣となりて
差し出された玉露で一息ついた綱吉は(幼いガキのくせにやけにじじくさい)差し出した少女に、にこりと微笑んで見せた。
「君が入れたの?」
右目を眼帯で隠した制服姿の少女は、恐る恐るこくりと頷いた。見覚えのある髪型には突っ込まないでおく。
二十畳程の畳の広間に、上質な机を置いて周りを囲んでいる。ただし、席にいるのは綱吉、コロネロ、骸の三人だけだ。犬と千種は家の用事をしてこいと骸に追い出されてしまっていた。ちなみに、追い出すまでに結構な騒動になったのは言うまでもない。
「美味しいよ、ありがとう。初めて会うよね」
「十五年程前に拾ったんですよ」
綱吉をあぐらの中に置いてご機嫌な骸が、腕の中の綱吉に囁く。
「交通事故で死にかけていたんです。天涯孤独の身の上で、欲しがる人は誰もいそうにありませんでしたから、僕がもらいました」
ふんふんと頷く綱吉の耳に艶やかに言葉を落とす骸は、コロネロを完全無視だ。
「クローム・髑髏と言います、綱吉様」
「ツナでいいよー。様付けられると、どうにも据わりが悪くてさ」
「そんなっ」
「クローム、綱吉君の言う通りに」
「しかし、骸様」
「いいっていいって、別に俺、そんな大した吸血鬼じゃないし」
クロームもコロネロを歯牙にもかけない。一体俺が何をしたんだ。
しかし、とコロネロは心の中で溜め息をついた。
あの木を植えたのだから、さぞかし立派な人間だろうと期待したのは間違いだった。
狭量過ぎやしないだろうか、心が。
元々悪い目つきを更に悪くして、コロネロはテーブルに肘をついた。
「こら、コロネロ。寂しいのは分かるけどすねちゃダメだよ」
「誰がすねるかコラァッ! ガキみてぇな扱いすんじゃねぇ、俺は二十歳だぞ!?」
数秒間、綱吉は考え込み、そしてぽんと手を叩いた。
「じゃあ一番若いんじゃないのか? クロームは何歳?」
「十三の時に骸様とお会いしたので、本来なら二十八です」
「ほら。犬と千種は五十路越えてるし、骸なんて生ける白骨だし」
「綱吉君は生ける化石ですよね」
頷いてから、骸はようやくコロネロに向き直った。
赤と青の瞳は、先程のように荒ぶってはおらず、静かに、平らにこちらを見据えていた。何故か居心地が悪くなる程に、真っ直ぐに見られる。
吸血鬼は厄介なものだと思う。
こうして見れば、六道骸という男が人間という括りに当てはめられぬ力を有している事も、自身の主の底冷えする眼差しにも気付いてしまう。感覚が鋭敏になり過ぎるのだろうか。人であった頃には分からなかった変化と予兆、本質が見えてしまう。
「さて、本題に入りましょうか」
不意に視線を外され、いつの間にか詰めていた息を吐き出す。
「そうだな」
同意した綱吉が骸から離れ、コロネロの隣へ移動する。クロームは一礼すると和室を後にした。
三人だけとなった部屋には、コロネロにとって居心地の悪い沈黙しか残らない。
やがて、綱吉が口を開いた。
「コロネロにはまだ言っていなかったね」
その言葉で時が戻った。
「そうなんですか?」
「うん、何だかんだで先延ばしになっちゃった」
「何の話だ、コラ」
「血族の話」
綱吉は居住まいを正した。何となく、そうせねばならない気がして、コロネロも背筋を伸ばした。
視線を交わし、小さく息をついてから、彼は告げる。
「俺は、『炎帝』ボンゴレの血統に連なる吸血鬼だ」
「ボンゴレだと?」
コロネロはハンターで培った知識を引っ張り出した。
吸血鬼においてボンゴレの名を知らぬ者は無いだろう。
欧州では最大の勢力を有する血統だ。その力は、人間社会を裏から操る程に巨大で、また血族の数も欧州系では断とつに多い。血族の本拠地はイタリアのシチリア。マフィアとの繋がりもある。もちろんそれだけ巨大な血族である彼らは、ハンター達とも繋がりを有している。
一度会った事のあるボンゴレの当主の顔を思い出した。
穏やかな笑みを浮かべる老人の姿をしたその吸血鬼は、確か九人目の当主だった。人間を見下さない性格の老爺とは、なかなかに面白い会話が出来たのを覚えている。
「俺は、ボンゴレの直系なんだ」
綱吉の言葉に、目を見開いた。
「炎帝の一番目の血族だよ」
その言葉を聞いて、コロネロは笑い出したくなった。
スケールがでかすぎる。
かの血族が生まれたのは紀元前だ。遥か昔、今の欧州の何処かで生まれた。
その最初の血族? だったら目の前のこの子供の姿をしたそれは、一体どれほど生きてきたと言うのか。
「俺、奴隷だったんだ」
綱吉は、にっこりと笑う。
「でも何やっても失敗した。重労働をするには力が足りなかったし、ぶっちゃけ奴隷としては、全然役に立たなかったんだ」
「……で?」
「役に立たない奴隷なんか、使い道が無いからさ。食料減らすだけなら、殺しちまえって言われたんだ。だけど死ぬのは嫌だった」
コロネロを見据える子供。
「だから、俺は逃げた」
見張りの隙をつき、これ以上とないぐらいの全速力で、逃げたのだ。
「森に逃げ込んだのはいいけど、今まで外の世界を見たことの無い俺にとって、そこはとても厳しい世界だった。餓死と獣と凍死にいつも怯えてた、そこでも、俺は死にそうだった」
綱吉君、と骸が意味なく呟く。見れば彼は険しい表情をしていた。
綱吉は言葉を連ねる。
「打算だった」
「何がだ、コラ?」
「単純にさ、生きたかっただけなんだ。森で俺を助けてくれた男が、生きたいか、だなんて聞くから、思わず頷いちゃったんだよ」
大きなため息をつく。
諦め顔で、彼は疲れた声音を出した。
「ジョットは運命だって言ってたよ。血が森へ誘ったんだって。そこで俺を見つけたらしい。あいつは予言者だったんだ。普段は馬鹿みたいな男だったけど、始祖として振る舞う時はとても偉大な吸血鬼だった」
対応に戸惑ってしまう。
今まで、コロネロは人間だった。ついこの間まで、人間に害なす吸血鬼など全部殺して来たのだ。
始祖が偉大だという認識は分かる。しかし彼自身がそう感じているかと言えば、それはどうも違うのだ。
そんなコロネロを見て、綱吉は全て分かっているかのように笑んだ。
「俺は、生きたかったから、炎帝の闇のキスを受けた。それで、いいんだ」
話は終わったらしい。綱吉は立ち上がった。そしてどこへ行くのかと思えば、骸の胡座の中へと戻る。骸が相好を崩して綱吉を抱きしめるのを見たコロネロは、盛大に顔をしかめた。
はたから見てれば、まるでロリコンの図だ。
骸は綱吉のもふもふとした頭に頬をすり寄せた。
「平安の時分でしたかねぇ。綱吉君と出会ったのは」
「そうそう、陰陽師に紛れてたんだよ、お前」
「君がいると分かっているから、僕はこうして生きていられるんです。だから、」
骸はコロネロを睨み付けた。
「君には、渡しませんよ」
「……何がだ、コラ」
「余裕ぶるのも今の内です! 綱吉君は僕にメロメロなんですからね!」
「骸って千年以上前から、その冗談言い続けてるよなぁ」
睨み付ける骸の下で、綱吉が不思議そうに呟くのを聞いて、コロネロは理解した。
千年越しの片思いかよ、コラ。
「……重てぇな」
小さく呟くコロネロの台詞は、幸いにも綱吉を愛でる骸の耳には入らなかった。
「僕は吸血鬼なんか大嫌いです」
「知ってるよ」
「だけど綱吉君だけは大好きです」
「ほんとに? ありがとう、骸」
「そういや」
ふとコロネロは声をあげた。
一番肝心な話を聞いていない。
「何で、テメェは追われてんだ、コラ」
綱吉は首を傾げ、そしてはっとした。
「言うの忘れてた」
「もう、綱吉君たらお茶目さん」
「あいつのせいなんだ、ほら、名前なんだっけ? ボンゴレの仮当主」
「ああ、あの傲慢な不細工面の男ですよね。ザンザスでしょう」
「そう、それ!」
「……で、それがどうした」
何だか疲れてきた。
口を尖らせた綱吉はきゃんきゃんとわめく。
「酷いんだよ、あいつダムピールなんだけどさ、異常に強いんだ。それで当主にものし上がったんだけどね。で、完全なヴァンパイアになって強くなりたいから、俺の血を寄越せって言って来るんだよ!!」
「やりゃあいいじゃねぇか」
「やだ。義理の父を殺して当主になった男なんかに、炎帝からもらった血をやりたくない」
不意に、綱吉は目を細めた。
幼子のような空気ががらりと姿を消して、凛と鋭くかつ巨大な重圧をその身にまとう。
尖った瞳は、ちろちろと金に煌めく。
「血を拒む者は、それを受け取る意味を持たない」
厳かに、しかし乱暴に言い放つ。
清浄な気配が屋敷の中で爆発する。
見ているだけで息が出来ない程のコロネロとは違い、骸はただ小さく鼻を鳴らした。腕の中の古血は、欲も情も超えた所での大切な存在だ。突き詰めて行けば、結局は『思い』に落ち着くのだが。
だから骸は綱吉の血を求めない。
吸血鬼である綱吉の、いざという時の避難所になれるように。血に縛られた彼を、解放出来るように。
いつまでも人間であり続けた。
綱吉の気配に圧倒されている若造を見やり、骸はわずかに眉尻を下げた。
けれど、僕はもう必要無いのかも、しれないな。
綱吉が初めて作った闇の子。
よりによってアルコバレーノか。
骸は、心の中でそっとため息をついた。
すうすうと、この上なく幸せそうな顔をして眠っている。並んだ布団に寝るコロネロは、眉をひそめた。
暗闇でも視界がクリアな事に、コロネロはようやく慣れてきた。吸血鬼の血は、人では有り得ない力と、鋭敏な感覚を授けてくれた。
昼、あの強大な古血として降臨した綱吉は、あの後すぐにいつも通りのへらへらとした子供へ戻った。思わずほっとした自分が歯痒い。あれだけの力を前に、成り立ての吸血鬼はあまりにも無力だ。
しかし、とコロネロは笑む。
だからこそ、面白いのだ。
多分、生きてきた中で一番楽しい。
くく、と笑ってコロネロは寝返りをうった。
今日はもう寝よう。
まだ明日がある。
骸様、と声をかけてみれば、男は揺らめく蝋燭の炎から目をそらし、こちらへ向いた。髑髏は一礼してから、部屋の中へと進む。
「昨日の宿題、出来ました」
「ああ……見ましょう」
義務教育の途中で社会から抜け出してしまった髑髏に、五年程前から骸が勉強を教え始めたのだ。
ぱらぱらとノートをめくっていた骸は、不意に呟いた。
「情けない事に、怖いんです」
「骸様?」
髑髏は首を傾げる。
けれどそれに構わず、骸は続けた。
「千年以上生きたこの六道が、ただ一人に置いて行かれるのを恐れています」
察した髑髏は、口をつぐんだ。
自分なんかが出来る事など無い。
遥かに長い間、気の遠くなるような時間で、この方はずっと思い続けたのだ。
骸様には幸せになってもらいたいけれど、幼い自分では……。
「骸様、愚かな小娘と笑って下さって構いません。分を弁えぬ無礼です。ですけど」
言いよどむ髑髏に、骸は優しく微笑みかける。
「何ですか」
頷き、髑髏は息を吸った。
「恋は、当たって砕けろ! です」
骸は目をまん丸く見開いた。
しばらくの沈黙の後。
彼は哄笑した。
恐る恐る様子を伺う髑髏の頭を撫でる。
「当たって砕けろ、ですか」
なるほど。
昔から常勝だったから、負けを知らない。
けれど。
「砕けてみるのも、また一興」
骸は笑みを浮かべた。
蝋燭に照らされたその顔は、不気味な陰影を作り出す。
夜は更けてゆく。
暗い闇に満ち満ちる霧は、静かに穏やかに、太古の森を包んでいた。
文字数限界
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