可愛い可愛い我が子よ。
いつか果てない未来で、お前は絶望するだろう。
けれど、理解しなければならない。
何をかって?
それは自分で見つけるものなのさ、我が子よ。
暁光は剣となりて
ぴりっとした、痺れにも似た疼きが、背筋を駆け上って脳天から発散される。こういう時、ろくな事が起こらない事を綱吉は知っていた。
追っ手から逃れて、山奥に住む旧友に世話になってからもう一週間経つ。最近では、我が子もなかなか、棘が引っ込んで柔らかくなってきたので、このスローペースな日常を当たり前のように感じていた。
山の中の小川に足を浸した、Tシャツ短パン姿の幼児は、腰掛けていた岩からすくりと立ち上がった。そして空を覆い隠す木々の先、見えない太陽をじっと見つめる。幸いにも、太陽をそれ程厭わない血統である小さな吸血鬼は、こうして時折太陽を眺める。人であった頃、かつての赤い血を脳裏に思い描いて、彼は時の流れに身を任せる。
様々な出来事の先に今がある。
永遠の時を得て、それ故に死に恋したこともあった。けれども、今尚生きているのは、昼を愛する赤い血が必死に限られた生の中で喜び悲しみ、行きようとするのを見てみたいからだ。
目を閉じる。全身の感覚を全開にしてみれば、精神が涼やかな自然を感じ取った。
しばらく、彼はそのままでいた。
これから何かが起こるだろう。
とても苦しく悲しい何かが。
止める術を彼は知らない。
だから彼は嘆くのだ。
だからこそ、彼は。
嘆きの先に歓喜を祈る。
その瞬間に、六道骸は大きく体を震わせた。
「骸様?」
訝しげに呼び掛ける千種を無視して、余裕の無い表情で立ち上がると、二人がいた居間から慌ただしく飛び出して行く。黒いジャケットが肩から落ちるが、拾う事無く彼は庭先へ飛び出る。
そこには、森から戻った綱吉がいた。
神妙な顔付きで、ふらりと立つ幼児を、見つめる。綱吉もまた、人ではない人をじっと見つめ返した。
言葉無い意志を確認しあい、二人はやがて視線を天地に逸らした。地を見つめる綱吉は悔しげに、天を見つめる骸は苛立たしげに、それぞれ動かない。二人は何が起こるかを感じ取り、けれどもどうしようもないその事実に嘆き、怒っていた。途方も無く永い年月を生きていようが、所詮は、一生命体である彼らは、決して巨大な氾流を動かし得ない。人が山を動かせないように、海を動かせないように。
二人は、様子をおかしく思った千種が呼びに来るまで、ずっとそうして佇んでいた。
「『アルコバレーノ』?」
ブリの照り焼きを口に放り込む寸前で、コロネロは箸を止めた。一瞬迷ったが、ブリを放り込み、咀嚼して飲み込んでから、彼はもう一度その台詞を繰り返した。
六人での食卓。上座には綱吉が位置し、挟み込むように骸と犬が胡座をかいている。そのそれぞれの隣に、髑髏と千種が正座し、最後に端にコロネロが四苦八苦しながら正座していた。初めはこの席順に文句を言ったが、今ではもう慣れてしまった、恐ろしい。
「ええ、君がいた吸血鬼退治に特化した小隊、対吸血鬼アルコバレーノ小隊の略称を兼ねて、その隊員を指し示しているのですよね?」
「ああ、そうだぜ」
元々コロネロはヴァンパイアハンターであり、名を轟かせていた。その実績を買われ、アルコバレーノへの入隊をかつての師匠より勧められたのだ。
犬と綱吉が小骨に苦労しているのを見かねた千種が、二人の魚を綺麗にしてやっているのを羨ましそうに見ていた骸だが、耳はしっかりこちらを向いているらしい。なるほど、と呟いて少し考え込んだ。ところで彼は何を羨ましそうにしていたのだろうか。食べにくい魚を食べやすくしてほしくて羨ましそうにしていたのか、それとも綱吉の魚を綺麗にするのが自分ではなくて千種だったことに、羨ましそうにしていたのか。どちらにしてもいたたまれないような気持ちになるコロネロだった
隙を見て、コロネロは食を進める。千種という少年が作ったらしい。味噌汁とブリの照り焼きと菜の花のごま和え、そしてほんの少し固めに炊かれた米は、綱吉に大歓迎されていた。聞くところによれば、数年に一度、一週間程度だけ、綱吉はここへ泊まりに来るらしい。つまりまだ数回しか、千種も犬も会った事は無いと言うのだが、それでも二人の懐きようは見ていていっそ、すがすがしいほどだ。
「『アルコバレーノ』……虹と言うからには、七人いるでしょう? 有名どころで、『ジャッロ』や『アッズーロ』、『ヴィオレット』は聞いた事がありますが、他はどうなんです?」
コロネロは少し、眉根を寄せた。
いくらもう人ではないとは言え、かつては所属していたチームを売るような真似をする事にはならないだろうか。
悩むコロネロの耳に、幼い無邪気な声が届く。
「俺も聞きたいな。どんな人がいたの?」
箸を置き、目を輝かせた子供がこちらを見ていた。
綱吉は、にっこりと笑う。
「『アルコバレーノ』って言うと、俺達の間じゃ、すごく有名なんだ。『古血』でも、油断大敵だって雲雀さんが言ってたよ」
雲雀さん、と言う単語を聞いた瞬間、骸が苦虫を大量に噛み潰したような顔をした。雲雀、の名をコロネロも聞いた事がある。
「『緋煙』の雲雀か? 確か五百は超えてる古血で、吸血鬼を狩る異色の吸血鬼だろ? 知り合いだったのか、コラ」
「狩るのは吸血鬼とは限らないんだけどね」
綱吉が苦笑いする横で、骸が憎々しげに呟く。
「あのひよっこめ」
「雲雀だって。ひよこじゃないよ」
「ひよっこです。あの若造、僕らの家族旅行を滅茶苦茶にしてくれたんですよ」
「せっかくうさぎちゃんと楽しかったのに、あの鳥やろーが襲って来たんら!!」
千種がむっすりと頷く前で、髑髏はきょとんとしている。コロネロも話が見えずに閉口した。まあまあ、と三人を宥めた綱吉が、雲雀との出会いを簡潔に語った。
「群が嫌いだからって襲われたんだ、三十年ぐらい前だったかな」
懐かしげに語る綱吉とは正反対に、三人の表情はどんどん暗くなってゆく。
雲雀は有名な吸血鬼である。どこの血統であるかは知らないが、とにかく強い。コロネロは会った事は無いが、同僚の一人が確か仲が良かったはずだ。聞けば、なかなかにクレイジーな吸血鬼だという。
「ま、さすがの俺もびっくりしたなあ。それから何か、仲が良くなっちゃってさ。今でもたまに連絡くれるし」
楽しげに語る綱吉だが、コロネロは何となく面白くなかった。
すごく強いんだ、と目をきらきらと輝かせる綱吉を、若干むすっとした表情で眺めていれば、くすり、と耳に小さい笑い声が届いて来た。音の方向を見れば、十五、六の姿をしている髑髏がこちらを向いて楽しげに笑っている。
見ている事に気付いて、笑いを引っ込め、いつも通りの表情に戻した様からして、どうも話の内容に笑っていたのではなく、コロネロが置いてけぼりにされて面白くないと思ったことに対して、面白がっていたらしい。か弱い少女かと思えばそうでもない。そう言えば自分より年上だったという事を思い出したコロネロは、思わず顔をしかめた。完全に下に見られているんじゃないのか、もしかしなくても。
渋面で悩み始めたコロネロを引き戻したのは、六道骸の声だった。
「それでどうなんです? 僕はインダコとは会ったことがありますが、他とは会ったことが無いんですよ」
「インダコ、バイパーに会ったのか、コラ!?」
「ええ、会いましたけど」
それが何か、と問い掛ける骸に対して、コロネロは思わず詰まった。別に、何という事も無い。無いが。
「……聞いてねーぞ、コラ」
ぽつりと呟いたコロネロの言葉で察したらしい、骸は哀れむような視線を寄越して来た。
「まあ、彼は奔放な性格のようですし、ね。報告が無かったのも仕方無いと思いますよ」
「なるほど、アルコバレーノってやっぱり、個性派集団なんだ」
「綱吉君、そこは察して黙っていないと」
「あ、ごめん、コロネロ」
悪びれずに謝る闇の父は、続きをせかした。
仕方なしに、コロネロは口を開ける。
「『ジャッロ』、『インダコ』、『ヴィオレット』、『ヴェルデ』、『ロッソ』、『アランチョ』、俺が『アッズーロ』だ。ただし、『ロッソ』は、今、休養中だ、一応」
「一応?」
「ああ、唯一の女だがな、古血にやられて今は療養中だぜ。そのくせ本部には詰めていて、ぐだぐだとうるせーんだ、コラ」
硬派な性格の女教官を思い返して、彼は眉をひそめた。嫌な思い出しかない。正直なところ、うるせーなどと彼女の耳に入れば、銃弾の一発や二発くれてくれるだろう。
それを何と勘違いしたのか、綱吉がにやにやと笑う。
「へえーそうなんだー。じゃあコロネロは心配だろ」
下卑た、と書けば何やらいやらしいが、実際幼児が浮かべた笑みは幼児らしからぬ、道端の井戸端会議で母親達がよく見せるような、そんな笑みだった。ちなみに先ほど髑髏が浮かべた笑みとも同種である。
あまりにあまりな勘違いに、目から涙がこぼれそうだ。否定してもこの場合更なる誤解を生みそうな気がしたコロネロは、泣く泣く訂正を諦めた。
「……では、今動けるのは、『ロッソ』以外ですか?」
骸が、にこやかな顔で尋ねる。
その質問に、ほんの少しだけ、コロネロは目を見張った。
何となく、今までの質問とは、種類や目的が違ったような気がしたのだ。
骸を見返し、それから綱吉に視線を移した。
綱吉は、目をぱちくりとさせ、それから慌てたように視線をそらす。
何かある、と言わんばかりのその対応に、コロネロは口を引き結んだ。
和やかな食卓は、いつしか、ぴりぴりとした空気に覆われていた。綱吉が俯く隣で、骸が笑みを浮かべたまま、じっとコロネロを見続ける。どうする事も出来ない骸の配下三人は、動かず、事の成り行きを見守っていた。
コロネロは、骸の視線を正面から見返した。
「『アルコバレーノ』が動いているのか」
元来、彼は策謀には向かない性格だった。どちらかと言えば、直情的。作戦を立てれば、そこらの傭兵より出来た作戦が出来上がるし、また敵を翻弄し、狡猾に殲滅戦を行うのも好きだった。吸血鬼相手に人間が戦うには頭脳と頭数、火力がものを言う。
けれど、真正面から突撃し、派手に花火をあげてこそ、それこそが真髄ではないかとも思っていた。
だからこそ、真正面から六道骸に向き合った。コロネロは、底の見えない男にもう一度問う。
「俺を殺しに来てんのか?」
全てを言わずとも、骸はコロネロの内心を理解したらしい。
苦笑混じりに、彼はため息をついた。
仕方がない、といった風情で肩をすくめ、綱吉に目配せする。おずおずと綱吉が頷き返したのを見て取り、彼は口を開いた。
「もうすぐ、来るでしょうね」
沈黙に、更に重圧がかかった気がした。
胸につかえる何かが分からぬままに、コロネロは顔をしかめた。
改めて聞けば、苦しい。
コロネロの様子を伺うようにしながら、綱吉が言う。
「四人、人間がずっとこの辺りを彷徨いてるんだ。骸の話じゃ、強力な幻術師もいるみたいだし……もしかしたらこの森の中に入って来られるかもしれない」
「幻術師……バイパーだな。『アランチョ』はまだ国外のはずだし、『ヴェルデ』は出不精だ。それ以外の奴が来てんだろ
おや、と骸は意外そうにした
「『ロッソ』は休養中では?」
「あのアマなら、来る。俺だって、『アルコバレーノ』だったんだからな」
きっと、どころではなく、限りない確信があった。
彼女は自分の教え子が吸血鬼になったと知れば、必ず自分の手で殺しに来るはずだ。そういう女だった、あの女は。
なるほど、と呟いた骸は、
「僕も負けはしませんが、万が一という事もあります。あまり外には出ないように」
君達もですよ、と置いてきぼりにされている三人にも言い含め、骸は視線をコロネロに戻した。
「君は綱吉君の血族です。君が死ねば綱吉君が悲しむ。仕方ないので守ってあげますよ」
不敵に笑いながら骸は居丈高に言い放った。
むっとしたコロネロだが、綱吉は目を輝かせて骸に抱きついた。
「ありがとう、骸! 大好き!」
「平安からの付き合いじゃないですか、水くさい」
総合を崩して抱き締め返す男は、いかにも楽しそうだった。
コロネロは口を引き結ぶ。
きっと不機嫌な表情になっているだろうと思うが、仕方が無い。仕方が無いのだ。
転びたての吸血鬼が古血に敵うはずもなく、また人を凌駕した化け物にも敵うはずがない。感情は面白く無いと叫ぶが、理性が自らの力不足を抉り出せば、コロネロはただ見ているだけしかなかった。
人間であった時とは違った。
吸血鬼は、力の上下がそれこそあからさまなまでに、露骨にものを言う。人には分からない濃密な気配、背筋を駆け上る寒気、きっと綱吉が本気を出せば、そう、一週間ほど前のように本性を現せばコロネロには決して太刀打ち出来ない。目を一度瞬く間に、灰となるはずだ。そしてそれは綱吉に限ってではない。古血は一人だけではないのだ。
それに。
「骸がいたら百人力だよ! 『アルコバレーノ』にだって負けないよね!」
「ええ、大丈夫ですとも」
弱い弱い吸血鬼が、古血をも殺せるかつての根城を相手には出来ない。
きっと人間だったらそれなりに相手出来るはずだ。そしてもう少し、せめて後一ヶ月ぐらい時間があったなら。
太陽を苦手とし、銀に滅びる吸血鬼。
人以上の膂力や回復力があったとしても、あの四人のコンビネーションと一人一人の力、それから対吸血鬼用の装備を考えてみれば、勝算は少なかった。それにまだ、彼は人間の感覚を捨てきれていない。吸血鬼ならではの戦い方も、力の使い方も出来ていない。今のコロネロは、限りなく半端な存在だった。
既に人ではなくなった存在、吸血鬼としては弱すぎる存在。感じたことの無い、無力感。
先ほどまであった食欲は一気に消え失せる。
拳を握り締めた。
ああ弱い弱い。『親』から守られる『雛』であることしか出来ない。
「いいんじゃないのかな。今はそれでも」
いつの間に俯いていたのだろう。顔を上げれば、『親』がこちらを不思議そうな瞳で見ていた。
こてん、と首を傾げて、綱吉はにっこりと笑う。
「いいんだよ。それで」
琥珀色の瞳が、色濃くなり、そして子供は告げる。
「待っているよ、コロネロ」
そう、『子』に告げた子供は、わずかに目を細めた。
愛しむ眼差しは、吸血鬼になってから感じた太陽ではなく、人であった頃の太陽のように感じられた。
苛烈過ぎて、針刺すような痛みの光の束は、ただ絶対的な力しか見えない。けれどついこの間までは違っていたのだ。あたたかで、包み込まれるような柔らかい光。
鮮烈なまでに目に鋭く飛び込んで来るそれではなく、包容力のあるそれは、コロネロをじっと見ていた。
いつ思考を読まれたのかは分からない。そもそも、彼は読む必要があったのだろうか。読める力があるのだろうか。
いや、そんなことはどうでもいい。
コロネロの脳にかつてない衝撃を与えた言葉は、今もなお、彼の心臓をまるで握りつぶそうとするかのように強烈なイメージでもって彼を動揺させていた。
それでいい。それでいいのか。
待ってくれるのか。
年月を重ねれば重ねるほどに強くなる吸血鬼。もちろんそれは綱吉とて同じだ。この千年以上の力量の差は決して埋まることは無い。けれど、他の敵から干渉されても綱吉を煩わせること無く、自分がそれを殲滅させることが出来るようになればいい。一つまみの灰であろうと、汚せぬよう、自分が強くなっていけばいいのだ。
しかしそうなるまでにどれだけの年月がかかるだろう。
百、二百を超えねば古血とは言えない。百では若造。二百でもまだ遠い。三百、四百、五百、けれどまだまだ世界には上がいる。
だが、コロネロは確信していた。
例えそれだけの年月がかかろうとも、彼は、待っていてくれるのだろう。
「待っているよ、コロネロ」
もう一度繰り返したその子供に向かって、コロネロは頷いた。
ああ、と一言。
「待っていてくれ」
情けない台詞。自分の精一杯。今の限界。
情けないのは重々承知している。吸血鬼になってから目覚ましく変わって行く世界に追いつけていないのも分かっている。自分のヘタレ具合も、『親』に頼るしかないこの状況も。
分かっているけれど、言わなければならなかった。
この台詞をいつか、言わずに済むことになるような未来を目指せばいい。
有り体に言っての目標。
守られるのではなく守れる未来を目指す。
コロネロは、笑った。
何だか、胸につっかえていた塊が、すんなりと通っていったような気がした。決して消え去ったわけではない。それは今もコロネロの中にある。
あるが、今はそれが『苦しみ』だと思わなかった。
名前を呼ばれて振り返る。
静か過ぎる夜。
雲は無い。
月の見える、晴れた夜だ。
虫も鳥もいない、生き物の気配の全くしないこの森の中にひっそりとある家屋の一部分、縁側に腰掛け、夜空を見上げていたのは、濃紺の浴衣に身を包む一人の青年だった。
瞳は左目が青で右目が赤。遥か昔には両目ともまるで血のような赤色だったが、壊れかけた体を別のものと代えた時に、左目の色が変わったのだった。『六』の字が刻まれた右目は身体が変わっても同じ色、文字をしていた。自分の力の源は、そこにあるのだろうと何となく思う。長い年月の内に何度か身体を代えたが、いつだって右目は変わらなかった。今の身体は、確か日本人とイタリア人のハーフだったはずだ。
取り留めの無い思考は、ふと夕食の一幕に飛んだ。
彼を『親』と慕う『雛』は、どうやら底なし沼から助け上げられたらしい。迷いのあった眼差しが、彼の一言で、あんなに変わってしまうだなんて。
そう、一言。一言で彼は、奇跡を起こせるのだ。
吸い込んだ湿った空気が、鼻腔に深い森の香りを残して肺へと進んだ。
雲は無い。
月の見れる、晴れた夜だ。
静か過ぎて、妙にもどかしい。
月の魔力だろうか、と思った。
在り得る。吸血鬼は満月の夜に最大の魔力を得る。古今東西、様々な妖魔だって満月にその魔を最大限に引き出せる。この身とて化け物。ならば、満月にこの心を左右されても仕方ないのかもしれない。
ああ、本当に。
苛立っている。
青年は、獰猛な笑みを浮かべた。
これも月のせいだろう、きっと。
夕餉での奇跡。
くく、と笑って骸は満月を睨みつけた。
かつて、彼に奇跡を与えられたのはこの僕だった。僕が、僕こそが、彼の隣にいたのだ。彼と世界中を巡り歩き走り楽しみ悲しみ苦しみ。笑いあってきたのは、この僕と彼なのだ。
なのに、一体何なのだあのガキは。転化してから月も経っていない。なのに彼の血族というだけで、彼の中での位置は僕を凌駕しているだなんて。
腹立たしい。むかつく。
つい一週間ほど前に、玉砕してもいいかもしれない、と、そう娘のような少女に言った。だけど撤回しよう。玉砕など、まったくもって気持ちのいいものではない。忌々しいだけだ。冗談じゃない。あれは、僕のだ。
宝物を奪われたような気分になって、彼は笑みを引っ込め、がらりと別の感情に塗り替えた。
奪い返してしまえばいいのかもしれない。
簡単なことだ。あのクソガキを自分の力で殺してしまえばいい。奴が吸血鬼であろうと、決して自分の力には敵わないだろう。それだけ奴は弱い。だけれど、それで簡単に彼が自らの元へ帰って来るとは思わない。むしろその瞬間に彼とは永遠の決別をすることになるだろう。
それでもいいかもしれない。そう思えるほどに、彼は憎悪と痛苦に忠実だった。そしてそれが出来ないほどに、彼は理性を有していた。
どこか力の抜けたような気がした。虚脱した体は、諦めを囁いてくる。
狂おしいまでに思っていても、決して彼は振り向かないのだ、と。
「骸」
名前を呼ばれて、振り返った。
そこに、彼がいた。
「隣、いい?」
どこか照れくさそうに笑う小さな身体の吸血鬼は、骸の右隣を指差した。
接近に全く気付かなかった。彼は、とても強いのだ。幼い身体に似合わぬ強大過ぎる力を有している。きっと人はそれを知っただけで、彼を恐れるのだろう。それでも骸は、彼が好きだった。
「ええ、どうぞ。君なら大歓迎ですよ、綱吉君」
子供用の浴衣を着た綱吉は頷き、とたとたと小さな足で歩み寄り、骸の隣へ腰を下ろした。
青年は浴衣の裾から覗く裸足を地面の敷石につけているが、子供は足が短くて届かない。ぷらぷらと揺らしながら、彼は空を見上げた。
「満月だな」
「ええ、満月ですね」
相槌を打つが、正直な話、あまり脳には綱吉の言葉が届いていなかった。
今、彼が来るだなんて思いもしていなかったせいか、心臓の鼓動が激しい。よりによって、自分の立ち位置に嘆いている時に、その原因と会話しなければならないだなんて。
上の空な骸に気付いているのか気付いていないのか、綱吉は言葉を連ねる。
「ジョットと会った頃の満月も今の満月も変わらないなぁ。昔に比べれば見えにくくなったけど」
そこで綱吉は骸を仰ぎ見た。
無視するわけにもいかず、骸はおずおずと綱吉と視線を合わせた。
綺麗な目だと思う。
けれど、初めて出会った夜に見た目とは、少し違っていた。
あの時は薄氷のように向こう側が透けて見えてしまいそうな色をしていたが、それに、今は見るだけでほっとするような温かみを添えていた。
彼も、何かに救われたのかもしれない。会った当初は、夕暮れになればずっと沈み行く太陽を見ていたり、あまり言葉を交わしたりせず、一定の距離をもっていた。それが徐々に触れ合うようになったのはいつからだっただろう。ボディタッチが自然に思えるようになるまで、少し時間がかかったのだ。
「お前と会った時も、満月だったなあ」
思考に、言葉が入り込む。
そうだった。
真っ黒な狩衣だなんてどこから得たのかは知らないが、それを身にまとった吸血鬼は、背後に満月を従えていた。
「綺麗な、満月でしたね」
「うん。お前も綺麗だったよ」
さらりと言われて、一瞬何を言われたのか分からなかった。
一拍遅れて、変な声が喉から漏れる。
何を言っているのだ、この吸血鬼。
「いきなり何言って、いや、確かに僕は綺麗でかっこいいですし、君にそんなことを言われて嬉しくないわけがないですけれども、いえ、そんなことが言いたいんじゃなくてですね……!」
「とにかく落ち着けよ。見苦しいぞ、骸」
「君のせいじゃないですかぁ!」
何だこの脱力感。目尻に浮かんだものは涙ではない、と信じたい。
ひどい。ひどすぎる、この吸血鬼め。
この子供のせいだというのに、当人は平然として月を眺めている。隣で骸はあわあわと一人慌てているのだ。不公平にも程がある。何で僕ばかりが振り回されなければならないんだ。
この人、いや、吸血鬼のせいで今まで僕がどれだけ苦労したことか。ちょっと目を離せば厄介ごとに巻き込まれるし、そのくせ一箇所に縛り付けられるのは大嫌いだといってすぐに居住地を転々として、その先々で揉め事ばかりを起こして。今までこの吸血鬼に感謝したことなんてあっただろうか、いや――――――。
ある。あってばかりだ。
だからこそ、腹立たしいのだ。
「コロネロなんて大嫌いです」
ぼそりと呟いた。
え、と綱吉が声をあげる。
けれどもう止めない。この人が子供の姿をしているから悪い。
本当なら、彼が『親』で僕が『子』なのに!
「大嫌いです。僕から綱吉君を取り上げて、独り占めして。何なんですか、あのにやけきった顔。僕の隣じゃあそんな顔しないくせに。そんなに彼が可愛いんですか。どこが可愛いんです。小さな子供ならいざ知らず、あれだけのがたいのくせして綱吉君に甘えるだなんて目に毒です。僕なら大丈夫ですよ、そう言えばもうそろそろ身体を代えようかと思っていましたし、次は小さな子供の身体にしますから。とっても可愛らしいやつです。そしたら君は僕を可愛がってくれるんですか!?」
「ちょっと、骸、落ち着け!」
「落ち着いてなんかいられますか。僕の綱吉君がどこの馬の骨ともしれないクソガキに盗られようとしているんですよ!?」
小さな身体に詰め寄って肩をがしりと掴む。
なりふり構うのはやめにした。向こうが若さを売りにするなら、僕だって!
綱吉は驚いたように目を見開いたが、すぐに呆れたように笑う。
「お母さんを盗られそうなお兄ちゃんって感じだな、骸!」
「うるさい! むかつくんですよ、あいつ!」
「俺も人気者だな。ちょっと嬉しい」
「……ちょっとですか」
「ん? ああ、すごく嬉しい」
にやりと笑って骸の頭をがしがしと綱吉は撫でた。
しょうもない気持ちになる。この人の前じゃあ、余裕なんてなかった。いつだってそうだった。
今回に限って余裕綽々のように見せかけていたのは、すぐ近くにライバルがいたからだ。強力なライバル。彼の血族、だなんて。
口をとがらせて、綱吉にもたれかかる。
「……どうして、あいつばかり」
血族だから、この人を独占できるのか。
彼の血族、唯一の子。
骸には無い肩書きだから、あいつはこの人を独占出来るのだろうか。
僕にはない彼の血。
だったら、僕だって。
弱弱しく綱吉にすがって、彼の肩に額をつけた。
食い縛っていた歯を、そっと開けて、
「だって孫みたいなんだよ」
骸は、目を点にした。
呆然としてから、ゆっくりと抱き締めていた体を離し、悪びれなく言ってのけた小さな吸血鬼を見下す。
骸の言葉を遮ってそう言った吸血鬼は、ばつが悪そうにしながら苦笑う。
「いやさ、本人に言ったら怒られそうなんだけど、子供って言うよりかは、孫? 確かに身長はおっきいけど、やっぱり年齢の差なのかなあ、何か可愛く見えるんだよね。子犬みたいっていうか。って、骸? おい、何、どうした?」
もう一度綱吉にすがった。次は渾身の力をこめて綱吉を締め付ける。
「く、苦しいってば!」
「くふ……くふふふ、くははははっはは!」
「何!? ちょっとマジで何なのー!?」
「くはははははは! ざまあ見ろ、貴様の恋心など微塵も届いていない!! 神罰だ、まさしくこれこそ天罰! 吸血鬼め、陽光に灼かれるがいい!!」
「正気に返れえええ!!!!」
とち狂ったかのようにぎゅうぎゅうに抱き締めながら、どこかで聞いたような台詞を叫んだ骸を、綱吉は全力で殴り飛ばした。
叫び笑いながら宙を飛ぶ骸は、ぐしゃり、と庭に落下した。
はあはあ、と荒い息を整えた綱吉は叫ぶ。
「もう、マジで意味わかんねーよ!」
「くはははははは!」
ははは。はは。
じわり、と視界がにじんだ。
身体中を支配するのは脱力感だったが、しかしそれは何故だか居心地が良いものだった。
情けない、という顔をしていたコロネロを思い出す。
彼の気持ちも分かる気がした。
この人の一言で一喜一憂する自分。きっと彼もこんな気持ちだったのだろう。情けない。けれど、何故か嬉しい。楽しい。
ああ、悪くないとも。
彼がいれば、自分は大丈夫。
血族じゃなくてもいい。彼の血族に加えてくれと泣きつかなくてもいい。彼はそんなものにはきっと頓着しないのだ。
骸は湿った地面に大の字に転がった。
青い草の匂い。先ほどよりもより近くなった香りは、思っていた以上に気持ちが良かった。目を閉じて、口を開ける。
「綱吉君、僕は君の家族ですか?」
色々な草の生えた庭。花は植わってはいない。
裸足なのに縁側から下り、骸の傍まで綱吉は歩いた。
月を背負って、彼は骸を見下ろした。
「当たり前だろ」
そっと、瞼を上げた。
丁度彼の顔は陰となって見えてはいない。
見えてはいないが、骸は彼の優しい微笑みが見えた気がした。
あの遠い昔のような、懐かしい笑み。そしてその微笑により温かさを加えた、大好きな彼の笑顔。
「ああもう、愛していますよ、綱吉君!」
「あはは、俺も愛してるよ」
棒読みの返事だろうと気にしない。立ち位置に悩む必要などない。
しゃがんだ綱吉を抱きこんで、骸は夜空を見た。
きらきらと光る星達に囲まれ、満月はそこにあった。
僕は、この人の傍にいてやる、い続ける。居座ってやるとも!
「覚悟していろ、簡単にこの場所を譲ってやると思うなよ、若造!」
「ちょっと、またかよ! 正気に戻ったんじゃなかったのか!?」
わめく彼を更に抱きこむ。
そう、簡単に彼を抱き締めることも出来ないガキに、自分が簡単に負けはしない。勝ちはないかもしれないが、簡単に負けは認めてはやらない。
ああ、満月め! 憎らしい満月め!
憎らしい分だけ、愛し過ぎるのだ、畜生!
後書き
という訳で、へたれ攻ズの救済回でした。どうしよう骸のキャラがどんどん壊れていく……最初の吸血鬼を恨みつつ綱吉だけに心開くツンデレキャラは一体どこへ。いや、結構最初っから壊れてたっけ。まあいいや(テメ) ともかく、コロ綱を少しでも増やそうとした結果、骸綱が増えました。何故。攻視点にしたのがまずったかな。ああやっぱり受視点の方が書きやすかったか。今更ながらに後悔。まあいいや(またか)
その上一週間分の話をすっ飛ばしたせいで、骸VSコロネロが全く描写されていない罠。まあいいry また後で補足話でも付け足しとこう……。
ひとまず二人の救済はしたので次で何なりと出来そうですね。もうすぐ虹っ子集合しそうです。
そういや綱吉の守護者達もちょっぴり出そうかなあ、と思ってはいます。だけどこれ以上人を増やしたら収拾つかなくなりそうだ。ただでさえ薄いコロネロの存在が透明になっちゃうよ。
ひとまず今回出て来た雲雀の簡易設定。
雲雀恭弥。日本人。『キャバッローネ』の血統の古血。ディーノの子。五百越え。
家族旅行中の骸一家の中で綱吉がとんでもない強さだと勘付いて襲撃。そこで綱吉にぶちのめされてから血統が違うのに綱吉に懐くようになる。自身の力量アップの為に何が何でもやる戦闘マニア。ちなみにディーノとは百も年が違うくせに、親と子というより被害者と加害者という珍しい関係。もちろんディーノが被害者。リボーンとは面識があってそれなりに仲がいいらしい。群を見つければ噛み殺さずにはいられない。はみ出し者の吸血鬼を束ねて、自分に逆らったり、『秩序』に逆らったりする吸血鬼を片っ端から噛み殺している。
別に、ディノヒバというわけじゃあない。ヒバツナです。
では㊦に続く!
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