くだん、という妖怪がいる。
明治生まれのじいちゃんから聞いたその話は、幼心によく分からないぞわぞわとした恐怖を植え付ける話だった。確かあれはもう、五十年以上前の話だ。
幼稚園にあがってしばらくぐらいの頃に、じいちゃんの家に遊びに行った時に聞いたのだったか。
じいちゃんの葬式で、ぼんやりと宙を眺めた。
何故、今そんな話を思い出したのかは分からない。だけど、そういえば、そんな事もあったなぁ、と。母が「大往生だった」と明るく、だが少し寂しげに話す隣で、俺はぼんやりと昔を思い返す。
神妙にしている高校生の娘と大学生の息子は、彼らから見て曽祖父にあたる俺のじいちゃんとは数える程しか会った事が無かったはずだ。山奥の辺鄙な村に住むじいちゃんは、現代文明に否定的だった。テレビも無い、ラジオも無い、ガスも引いていない、電気も無い。科学の言葉の欠片すらない昔ながらの家屋は、二人の子供にとっては退屈な家としか見えなかったようで、いつもぶつくさと言っていた。
じいちゃんは、そんな二人のひ孫を責めもせず、したいようにさせていた。
ただ、家の裏の山へ子供が足を踏み入れようとすると、普段の温和な態度が嘘なように激昂していた。
危険、だそうだ。
妻と二人の子供は、滑落が起きたりする、という意味での危険だと捉えていたようだが、俺はじいちゃんの目に潜む、ひっそりとした畏怖を見ていたものだ。きっとあれは、『山』は危険だ、という意味だったのだろうと思う。
その、くだん、とやらは、人の顔に、牛の体をしているらしい。だから、『件』。
吉凶の前触れに現れる。牛から生まれ、様々な予言をするのだそうだ。そしてその姿は、護符として使われるのだと。
正直な話、昭和から平成と年号の変わったばかりの現在、新しい時代が来ているとしか言いようの無い今において、妖怪なんぞ馬鹿馬鹿しいものとしか思えない。まあ、昭和の本当の初め頃まではまだ、神隠しが頻繁に起こっていたらしいが、それこそ人買いやら人攫いだのが暗躍していた結果なんじゃないかと、二児の父親は思う。
俺がじいちゃんに会ったのは昭和の中頃だ。
にこにこと笑顔を崩さない矍鑠とした老人だった。ばあちゃんは俺が物心付く前に亡くなってしまったらしい。
洋服が主流になって来た時代で、頑として和服を譲らない人だった。
俺は年子の妹と二つ上の兄の三人兄妹だったが、じいちゃんに懐いたのは俺だけだった。妹はにこにこと笑うが怒ると怖いじいちゃんに怯え、兄は現世離れしたじいちゃんを怖がっていたようだった。
俺は、じいちゃんに憧れていた。じいちゃんの後を付いて回り、じいちゃんと一緒に畑を耕し、じいちゃんと一緒に魚を獲った。狩をした事もある。妻に話せば驚かれた話だが、猟銃を持って山に入り、獲物を探した。
そんな風に、俺がじいちゃんととても好いていたのを、じいちゃんはきっと分かっていたんだろう。
だから、ある日、じいちゃんは俺を自室に招いたのだと思う。
夏真っ盛りで、油蝉がうるさかった。
畳に座り込んだじいちゃんの前に、俺も腰を下ろした。
外はじりじりと太陽が照らすおかげで、火傷しそうなぐらいに暑かったのに、じいちゃんの部屋はなぜかとても涼しかった。
一人で住むには充分すぎるほど広いじいちゃんの家。
黒々とした太い木々が組み合わさって、無骨な厳しさを感じる。
じいちゃん、何、と呼びかけると、じいちゃんは笑った。
これから話す話は、内緒だよ、と。
悪戯げに笑うじいちゃんの皺くちゃの顔。
きらきらと、目玉が光っていた。
うん。内緒。
約束だ。
うん、約束。
これは、私が十の時に見たアヤカシの話だ。
そう言って、じいちゃんは話し始めた。
「その夏はいつもより寒くて、米の出来が絶望的だろうと、皆言っていた」
ひとまずここまで。明日続きを。……寝ます。
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